2023.2.8 参議院 国民生活・経済及び地方に関する調査会 参考人質疑①テーマ【生活困窮・格差、子ども・子育て世帯、障がい者】

【議事録】

○木村英子君 
 れいわ新選組の木村英子です。
 本日は参考人の先生方のお話をお聞きする機会をいただきまして、ありがとうございます。
 まず、尾上参考人にお尋ねいたします。
 尾上参考人は、長年障害者運動をされてきた中で、骨格提言の作成にDPIの事務局長として関わってこられました。その後は内閣府の障害者施策アドバイザーをされながら障害福祉の推進に尽力され、まさに日本の障害者運動を牽引されてきた方だと思っております。そして、昨年、国連の障害者権利委員会で出された総括所見では、脱施設や分離教育の廃止などが勧告され、インクルーシブ社会へ向けての大きな正念場を迎えているところだと思っております。
 そうした現状を変えていくためにも、尾上参考人が障害者がゆえに経験されてきた学校や施設での経験、そして障害者と健常者が分けられていることでの弊害をどう乗り越えられてきたのか、この間、差別と闘ってこられたその信念の原動力となった経験と思いをお聞かせ願いたいと思います。

○参考人(尾上浩二君) 
 質問ありがとうございます。
 皆様に今日、参考資料というか配付資料ということで、これは共同通信のインタビュー記事を印刷して持ってきたんですけれども、そちらの方に詳しく書いておるんですが、私は、子供のときは養護学校、今でいう特別支援学校ですね、そこにいまして、そこからさらに、障害児入所施設で過ごすことになりました、もう今から半世紀前のことでありますが。
 是非思い出していただきたいのは、1970年というのはまだ優生保護法が堂々と存在した時代でございます。障害を治す名目ならば何をしても許される、あるいは障害者はどんな痛みにも、どんな苦しみも耐えて当然だ、そういうふうな時代の雰囲気が正直ございました。
 私はその施設に入所している間、八か所手術をしましたが、手術をすればするほど歩けなくなっていきました。はっきり言えば、医療の実験台だったんだな、そういう思いを禁じることができません。実体験を通して、医学モデルというものの罪深さ、問題を感じているわけなんですが。
 また、当時は施設からの外泊というのも年に数回ぐらいしか認められていなくて、24時間施設から一歩も出ないわけです。まさに隔離された生活で。
 ちょっとエピソードを紹介いたしますと、週に一回買物の日というのがあったんですね。町中に出る買物の日ではなくて、施設のプレールームに置いてあるワゴンからスナック菓子を買う時間なんですね。何かままごとみたいだなと思ったんですが、そうしないと、町に出ることがないのでお金を使うことがないんですね。お金を使うという意味が分からなくなる、それだけ社会から隔絶した状況にあったということを示すエピソードだと思っています。
 ただ、私のいた施設では、障害のある子供だけが集められているということに疑問を感じるスタッフも一部いまして、彼らの応援があって私は中学校から地域の学校へ行くことになって、それで施設から出ることもできたんですね。もしその小学校六年のときの担当のスタッフが違ったら、そのまま私は施設にいて、その後の私の人生は大きく違ったものになっただろうな。先ほど、地域移行コーディネーターがどこでもあるように、たまたまの出会いではなくて、そういう人に出会えるという、やっぱりその思いの原点でございます。
 何とかそれで地域の中学校に行ったんですが、大阪でもまだ共に学び共に育つ教育が始められる前だったんですね。入学に当たって、親と私と学校とで何度か話合いを持って、結果、念書というのにサインを求められました。階段の手すりなど設備は求めません、先生の手は借りません、周りの生徒の手は借りません、これを約束するならば入れてあげましょう、今でいえば合理的配慮を求めないならば入れてやろう、そういうように言われて何とか入ったわけなんですね。
 私、その当時松葉づえを使っていたんですが、音楽教室、離れた校舎の4階とかにあって、その移動が大変で、いつも10分の休憩時間では間に合わなくて遅刻をしていたら、それに気付いた友人が、おい、次の授業おぶったるわと言うんで、いや、私は母親が念書を書いていたのを見ていましたから、いいよいいよと言っていたら、友達じゃないか、水くさいこと言うなというふうにその彼は言ってもらって、あっ、じゃ頼むみたいな感じで、それからやっぱり気にしてくれていた何人かの友達が手助けしてくれるようになったわけですね。
 さらに、その地域の学校へ行って私はすごく新鮮な驚きだったのは、家の周りに同じ学年の子がいたということなんですね。特別支援学校っていろんなところから集まるから、学校から帰ったら家の近くには友達はいない。ところが、地域の学校へ行くと、ああ、家の近くに同じ学年の子がいてるんだというのはすごく新鮮な驚きでした。
 音楽が好きな友達同士でレコードを買いに行くのに誘ってもらったことがありました。初めて親の付添いなしで地下鉄に乗ったんですが、同年代の、しかも趣味が同じ友達と出歩くというのはとても大きな開放感、あっという間に時間が過ぎていきました。週末になると町に繰り出すというふうな障害者になって今に至るわけですが、自らの世界が大きく広がる体験でした。その障害の有無で分けられることなく同年代の友達と過ごすことの重要性を実感をします。そういうふうに友達には恵まれたんですが、学校は今でいう合理的配慮、本当に何もしてくれなかったです。
 中学校三年のときに修学旅行がありましたが、松葉づえで歩いていて何かあったらいけないから、連れていってもらえませんでした。しかも、それだけではなくて、修学旅行は学業の一環だから三日間誰もいない教室で一人自習をしろと命じられて、本当にぽつんと自習をしていました。修学旅行が終わってから友達がやってきて、一緒に行けなかったから小遣い出し合って土産物買ってきたと渡されたときに、ああ、彼らと一生に一度の修学旅行に僕は行けなかったんだ、そのときに気付いてすごく悲しかったのを思い出します。
 こうした自らの体験があるからこそ、脱施設やインクルーシブ教育をよく国連は言ってくれた。尾上の時代はそういう、大変だっただろう、昔話だったらまあいいというか、もう今は違いますよというふうに言い切れればいいんですが、今でも、やっぱりこういう話をしますと、実は地域の学校で学ぼうとすると大変苦労したお話を聞くことがあります。昔話に終わらないのが今の日本の現状の問題ではないでしょうか。
 45年間障害者運動に関わってきて、先ほどのお話のあったバリアフリーであったり、障害者差別解消法ができたり、基本法改正をしていただいたり、大きな変化が生まれてきたと本当に感謝をしています。でも、一方で、やっぱりその入所施設や病院からの地域移行、インクルーシブ教育、これらは40年掛かってもなかなか進まない。大きな変化が生まれていない。私、残された本丸という言い方をしていますけれども、その課題に是非今こそ、この国連からの総括所見を受けて取り組むべきときではないかと思います。
 誰も取り残さず地域生活に移行できる仕組み、脱施設、そして子供のときからのインクルーシブな子供支援、インクルーシブ教育を是非とも実現できるよう、国会でのご議論をよろしくお願いいたします。


○木村英子君 
 尾上参考人、ありがとうございました。
 次に、三人の参考人の先生方にお聞きいたします。
 今回のテーマは、生活困窮、格差、子供、子育て世帯や障害者ですが、それぞれの問題は、社会の中での生きづらさについての調査会となっています。しかし、私のような重度障害者は介護をしてくれる親亡き後は施設しか行き場がなく、家族だけに介護の責任を負わせている社会状況が今も続けば、子殺しや一家心中といった悲惨な状況はなくなりません。一たび施設へ入ってしまったら、障害者が社会で生きていける保証がほとんどない中で、外へ出たい、健常者と同じように当たり前の生活をしたいと望んでもかなうことは皆無であり、死ぬまで施設にいることが私たちにとっては当たり前の現実なんです。ですから、幼いときに私と一緒に育った仲間たちはいまだに何十年も施設に隔離されています。
 そうした差別的な状況に耐えられず、今まで様々な障害者団体による当事者運動が続けられ、半世紀がたちましたが、介護がボランティアから労働として確立していく中で地域での生活を実現している障害者が増えてきた今日においても、いまだに施設の生活を余儀なくされている障害者がたくさんいます。このように障害者と健常者が分けられ、社会から切り離されている現状においても最も重要な課題は、幼いときから分けられてきた取り戻すことのできない時間を、今後国が法制度をつくり、障害者の社会参加を保障することだと私は思っています。
 同じ社会の中でお互いが出会い、コミュニケーションが普通に取れる共生社会を築くためにはどのような改善策が今後考えられるのか。そしてまた、それぞれの参考人の先生方が取り組んでおられる活動の中で、障害者の人たちとの関わりや経験がございましたら教えていただきたいと思います。
 まず、大西参考人の方からお願いしたいと思います。


○参考人(大西連君)

 ありがとうございます。
 我々の団体って、実は保証人というか、アパート契約を、借りる際の連帯保証人の事業を始めるところから実はスタートをしまして、これ元々のきっかけは、2000年代に入って、90年代、野宿の方がたくさんいらっしゃって、国とか自治体とかいろいろ支援を2000年代に入って始めるんですが、最初その野宿の方がその支援を使って、じゃ、一回施設に入ります、シェルターに入りますと、その後、アパートを借りるという際に連帯保証人をやってくれる人がいないという課題でアパートに入れない方がたくさんいて、じゃ、それを自分たちで引き受けようというふうに始まったのがうちの団体の成り立ちでして、ある種、アパートで暮らすということも連帯保証人がいないとかという事由でできないという方に対して、じゃ、何かやれることはないかなというふうに始まった事業でして。
 ある種、自立生活サポートセンター・もやいというのは、自立生活サポートセンターというのは結構障害者運動の影響を受けている団体名にはなっておりまして、本当に地域の中で当たり前のように暮らせるような社会というものをどう実現できるのか。当たり前のように得られるサービス、サポートというのが得られていない、そういう差別の問題もある。アパートの話でいうと家族が保証人やらないとなかなか入れてもらえないというような、いろんな政策上の問題もあれば、慣習的な問題もあれば、労働市場、マーケットの問題もあれば、いろんなものがあると思いますので、それを少しずついろんな形で変えていく、より良くしていくということがとても大事なのかなというふうに思っています。
 結構今、今野宿の方というお話をしましたが、特にここ数年、2010年代、20年代初めぐらいに入ってからは、保証人を引き受けてほしい、そういった住まいの支援を、うちのサポートをしたい、してほしいという方の中には結構精神障害の方がたくさんいらっしゃって、長く入院を、今日もお話いろいろありましたけれども、その方が地域で受皿がない、地域で保証人だったりサポートを受け入れてくれる団体がなくて困っていて相談に来られる。特に病院のソーシャルワーカーさんから相談が来て、いろんなパターンがあるんですけれども、あと刑余者の方だったりとかですね、本当に様々なサポートが、当たり前にアパートに住めるという状況を実現するための環境整備みたいなのが今まだまだすごく足りない。また、その方たちの社会参加というところでのつながりづくりというところもそうですけど、そこは改めて感じています。
 なので、実は共通しているテーマというか課題というところは本当に権利の話ですね。当たり前の生活が当たり前に送れるようにどうしたらいいのかな。そこから教育の話もそこにつながると思いますし、社会参加、つながりのところもあるかなというふうに思います。
 ちょっとずれた回答になったかもしれませんが、以上です。


○参考人(赤石千衣子君)

 ありがとうございます。木村先生、ご質問ありがとうございます。
 まず、私ども、エンパワーメントのためのグループ相談会というのをやっております。これは、90年代に障害者グループがピアサポートをやっていた、そのリーダーでシングルマザーの方に私ども教えていただきながらピアサポートグループをシングルマザーの方たちにつくった。なので、私どもとしてはそういうその、何というのでしょうかね、障害者運動というのが先輩であるという意識を持って接してきたというふうに思っております。
 また、障害年金と児童扶養手当の併給問題、ある程度決着が付いてきたわけですけれども、これについても取り組ませていただきました。今、障害年金の子加算と児童扶養手当の差額が併給されるようになっております。
 また、去年度、就労支援をやっている中で車いすの方が参加したいというふうに申し込まれました。いろいろ迷ったわけですけれども、私どもは審査をさせていただきながら参加していただくことを決断しました。結果的には就労にはつながっていませんが、非常にエンパワーメントされたということがとってもうれしく思っております。
 ですので、いろいろな場面で接点を持ちながら、学びながらやっていきたいというふうに思っております。


○会長(福山哲郎君) 
 尾上参考人、時間が来ておりますので、短く、恐縮ですが、おまとめください。


○参考人(尾上浩二君) 
 ありがとうございます。
 私からは、今まで障害者分野からは発言をしましたが、他分野との共通性ということで一言申し上げます。
 2009年の、8年から9年のときの派遣村のサポートに私たちDPIも関わらせてもらって、そのときのアンケートで何らかの難病や障害をお持ちの方が3割から4割ぐらいいたなということを思い出しました。
 実は今、日本の障害者人口は去年の三月時点で964.7万人、まあ人口の7.6%と言われています。でも、WHOや世界銀行の統計では人口の15%から20%が障害者というのが通常の状態だと。日本の障害の定義、範囲というのはものすごく狭い。言うならば、医学モデルだからなんですね。今回、総括所見でその障害の認定や評価に関して、医学モデルから社会モデル、人権モデルに転換をしなさいということも言われています。
 是非、その障害の範囲の見直しも含めて是非検討いただいて、本当に誰も取り残されない社会につなげていっていただければと期待して、発言を終わらせていただきます。
 どうもありがとうございました。


○木村英子君 
 ありがとうございました。質問を終わります。

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